戦争と米軍基地を考える ~身近にある戦跡から~
戦争と米軍基地を考える ~身近にある戦跡から~
跡地に病院や公園、大学
軍都だった北区赤羽の戦跡
北赤羽の台地上、勾配が急な「師団坂」を上ったところに、かつての第一師団工兵大隊、近衛師団工兵大隊という二つの軍事エリート師団が駐屯していました。現星美学園前のバス停「師団坂通り」から南を眺めると、東洋大学が見えます。その向こうには高層の赤羽台団地、スポーツの森公園、西ケ丘サッカー場がほぼ直線上に連なっています。
これらはすべて日本軍の基地でしたが、戦後進駐した米軍が安保米軍となり、駐屯が続きます。赤羽は基地の町でしたが、1967年に米軍基地が撤退して基地がない町になりました。
現東京北医療センターは、近衛師団(天皇の親衛隊)駐屯地の後に建てられています。射撃場跡地に作られた赤羽台さくら並木公園に沿って病棟や老健が見えます。公園の木々に埋もれるように、1915年第一次大戦中に皇太子から寄贈された石碑群があり、その地下には師団司令部の入る防空壕も残っています。
第一師団は二・二六事件の首謀者青年将校の多くが所属していた経過で事件発生前から警戒され、満州へ配置転換が始まっていました。この事件をきっかけに、軍部の暴走が始まっていきます。
現在は緑に覆われた赤羽八幡神社(御朱印に∞があったことから関ジャニ∞の聖地ともなっていた)の一角にひっそりと建つ赤羽招魂社は、1898年に第一師団内の天照皇大神を祀る営内神社で兵士を拝礼させます。これが基地内に「神」を祀った最初で、赤羽から全国の軍隊に広まりました。宗教と軍隊が一体となるなかで軍事大国化は進んで行きました。
「忠魂の碑」には、第一師団が参加した西南戦争、日清戦争、日露戦争、日独戦争、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、ノモンハン事件、太平洋戦争と、軍国主義日本が行った主要な戦争のほとんどに第一師団が参加していることが刻まれ、戦前の77年間にどれだけ戦争していたかがわかります。最後は、敗色濃厚の1944年10月に決戦師団としてフィリピンのレイテ戦に投入され、実に94%が戦死します。戦争する国づくりがもたらした結果です。
北区の戦跡めぐりは、東京ほくと医療生協組織部で随時受け付けております。
(東京ほくと医療生協 戦跡ガイド 森松 伸治)
基地なくなり街は発展
米軍基地を返還させた砂川闘争
1980年に東京都立川市に開業した国立昭和記念公園は、桜、チューリップ、コスモス、イチョウ並木と四季折々の花木がもてなす私たちの憩いの場となっています。
砂川闘争といわれる基地返還の闘争を経て、米軍から返還された立川飛行場の跡地に建設されました(終戦後、日本陸軍立川飛行場を接収して米軍基地としました)。
その影響もあり、立川の公的病院の前身はともに陸軍の病院で、国家公務員共済組合立川病院は東京第二陸軍病院、災害医療センターは立川陸軍病院です。
米軍基地を返還させた砂川闘争は、日本各地の基地返還運動の中でも画期的なたたかいです。
もともとは立川飛行場の拡張計画に対して農民や砂川町議全員、宮崎傳左衛門町長が基地拡張反対同盟を結成。その後、学生や労働組合、政党が支援し、一大闘争に発展しました。
土地の測量を阻止しようとした反対派と機動隊が衝突した砂川事件の裁判では、一審でいわゆる「伊達判決」と呼ばれる米軍基地建設の根拠となる日米安保条約を憲法違反とする画期的な判決が出されます。
これに対して国は高裁を飛び越え、最高裁長官も基地容認派に交代させて「伊達判決」を破棄させました。その後も基地拡張を許さず、ついに米軍が拡張を諦めて、基地返還を約束しました(隣の横田基地が拡張されたことは残念ですが)。
現在、立川飛行場跡地には、大型商業施設や各官公庁施設、国立災害医療センターや立川相互病院も建設されています。
立川市の現在の発展は、基地返還なしには考えられなかったでしょう。
再開発地区に「ひっそり」と満蒙開拓団の殉難者慰霊碑
品川・武蔵小山商店街
品川区にある武蔵小山商店街(パルム商店街)は、昭和31(1956)年にオープンした日本初の大型アーケード街です。完成時は全長470mで「東洋一」といわれ、その後も延長拡大。現在は武蔵小山駅から中原街道まで全長約800mの東京で最長のアーケード商店街です。
近年は、一大再開発で2つのタワーマンションが駅前にそびえ立つ。そこから見下ろされる形でひっそりと建つお寺と墓地。日蓮宗の興栄山朗惺寺、その本堂の手前に大きな石碑「第13次満州興安東京荏原郷開拓団殉難者慰霊碑」があります。
日中戦争、太平洋戦争で商売が成り立たなくなり、転業開拓移住として、総勢1039人を送り出しています。東京の開拓団総人数の約1割を占める、最大の開拓団でした。様々な業種の人たちが生業を捨て、満州へ渡りました。
太平洋戦争末期、ソ連侵攻による戦局の悪化で、自決や殺害の危機を免れ辛うじて引き揚げた人々は僅か数十人でした。九死に一生を得て引き揚げてきたものの、焦土と化した東京では生活を再建できなかった人もいました。
「戦争を語り継ごう」と鎮魂を祈る石碑は再開発地区に挟まれて「ひっそり」と立っています。