東京民医連

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みんいれんTOKYO(機関紙)1面の記事の抜粋です

東京民医連事務幹部養成学校
水俣フィールド研修
人権を守るたたかい学ぶ
患者・家族、運動に医学の支えが

 昨年10月に開校した事務幹部養成学校は、6月に熊本県水俣でフィールド研修を実施し、受講生12人と運営委員6人が参加しました。
 水俣市立水俣病資料館の見学、中山裕二水俣病被害者の会全国連絡会事務局長の話、水俣協立病院、水俣病の原因となったチッソ水俣工場の見学、山近茂水俣協立病院職員のガイドによる関連地域と不知火海(八代海)の見学、山近峰子水俣協立病院元総師長、板井八重子医師(現くすのきクリニック所長)の話と多面的に水俣での人権を守るたたかいを学びました。
 チッソ(株)は、1932年、アセトアルデヒド製造で触媒に用いた水銀を自然豊富な不知火海に流し始めました。この年から20年後ネコの狂い死になどの異常が現れ、1956年には最初の水俣病患者が公式に確認されました。1959年には有機水銀で汚染された魚介類を摂取した人への健康被害が水俣病であると明らかになりました。
 しかし、国は「石炭から石油へ」の国策と企業利益を優先しチッソを規制せず、チッソがアセトアルデヒドの製造を止めたのは水銀の排出開始から36年後、水俣病患者公式確認から12年後の1968年。国はそれを待って水俣病の原因がチッソ水俣工場の有機水銀であると断定。チッソは戦前の新興財閥で軍需産業、戦後の有力な石油化学企業として政財界に大きな力を持っていました。チッソの城下町で起こった水俣病は、被害を受けた市民に大きな亀裂を生みました。水俣のたたかいは、水俣病の原因究明・責任追及・被害者救済・環境復元、差別と偏見の克服とともに、市民の絆の再建・まちづくりも大きな課題となっています。
 1971年、水俣病第一次訴訟支援のために「公害をなくす熊本県民会議医師団」が結成され、全日本民医連の医師も加わりました。1974年、水俣協立診療所が開設、4年後に病院化、チッソ水俣工場の門前に建つ病院となりました。
 これまでの粘り強いたたかいで7万人が水俣病の救済対象となりましが、被害地域を限定した国の基準では救済できない被害者、水俣病であることを言い出せなかったり、水俣病を自覚していなかったりする潜在患者は、まだたくさんいます。
 一方、今年5月、チッソ社長は「救済は終わった」と発言し批判を浴びて撤回。加害企業と国が水俣病を終わらせようとする中、全ての被害者を救済するために不知火海沿岸だけでなく、水俣から移り住んだ関西や関東へ地域を広げた水俣病検診が大きな役割を担っており、民医連の医師と職員が取り組んでいます。
 受講生からは、「健康だけでなく、破壊されたのは社会や人と人のつながり」「山近峰子さんの『寄り添うこと=たたかい』の言葉に重みを感じた」「患者・家族、運動、そこには医学・科学の支えがあった」「社会に横たわる大きな矛盾、資本主義の根本的な問題について触れられた」などたくさんの思いが寄せられました。