東京民医連

東京民医連のご紹介

みんいれんTOKYO(機関紙)1面の記事の抜粋です

創刊1000号 若い世代へのメッセージ
医者になったら民医連と決めた日から今日まで
たたかいはここから、たたかいは今から
鬼子母神診療所 医師 伊藤 一二(いちじ)

民医連との出会い

 私が東京大学に入学した1956年は、入学早々、東京都学生自治会連合による「核実験禁止・小選挙区制反対・教育二法反対全都学生総決起集会」が開かれ、我々も全学ストで参加しました。5月には全国学生自治会連合の第一波、第二波全国統一行動と続き、入学早々からストの連続という学生運動の高揚期でした。横田基地拡張反対闘争にも参加していました。一浪して1959年、医学部に入学してからは安保闘争に明け暮れる日々を迎えることになりました。そんな中で、医者になったら民医連にと心に決めていました。
 1963年、東大病院インターン委員会を結成、東京民医連事務局を訪ね、アルバイトの必要な院所の紹介を受け、同期の人たちに斡旋しました。私はまだ誕生したばかりの、うなぎの寝床のような根津診療所に通い始めました。東大物療内科に6年間在籍しましたが、その間に東京民医連全院所の心電図約4000枚を集め、改変ミネソタコードで判定、パンチカードに打ち込んで「電算機センター」に運んで解析、老年医学会に報告したこともありました。

 

民医連での活動

 1970年、根津診療所所長になり、以後、氷川下セツルメント病院、鬼子母神病院、東京健生病院、そして現在の鬼子母神診療所と45年間、場所により、時期により診療の重点は変わりましたが、一貫して外来、往診、健診活動を続けています。往診は二年前ざっと計算してみたら、5万回を超えていました。
 氷川下セツルメント病院には青年医師が続々と入ってくる時代で、中央ブロックの結成、センター病院の建設が切実な課題になっていきました。
 鬼子母神病院は、かつて内科、外科、整形外科、産婦人科、小児科を擁する東京民医連の中でも最も充実した病院の一つでした。1970年10月、約200人の警官隊が病院を封鎖し、カルテなどを押収しました。職員は地域の人たちに支えられ、豊島区医師会などの支援も受けながら頑張りました。不正請求容疑でしたが、不正がないことが証明され不起訴となりました。その後、医師体制が困難になった鬼子母神病院からいっしょにやろうと声がかかり、鬼子母神病院と氷川下セツルメント病院二つで一つのセンター病院と位置づけ活動しました。CTスキャンを導入、東大分院や社会保険中央病院などからも患者が救急車で運ばれてきました。専門医の協力を得て病理解剖、CPCを開始し、50%を超える剖検率を維持していました。
 1982年、1万人に近い組合員の総力を結集して東京健生病院が完成しました。腹部外科のほか胸部外科、脳外科、耳鼻咽喉科、眼科の専門医が在籍、内科では循環器を充実させてシネアンギオを導入、救急車(二次)搬入率では、文京区第1位を維持していました。定期往診していた東大正門前の旧秋田邸の奥さんに「どうして健生病院とご縁ができたのですか」とお聞きしたところ、この家が大正時代の個人住宅として保存指定され、消防署員が定期巡回している。その消防署員に尋ねたらお宅を推薦されたとのことでした。
 東京健生病院ができてからの鬼子母神病院は老人病院として機能することになりました。リハビリ、在宅医療、デイケア、訪問看護を充実させ、当時としては一歩進んでいるとして、各地に講演に呼ばれたり、NHKのテレビ取材を受けたりしました。

 

小選挙区制下でも勝てる

 戦争法案は強行採決されました。全国で若い人たちが、法律家が、文化人が、そして私たち医療人も多くの国民と共に反対の声を上げました。国会デモに参加してシュプレヒコールのスタイルが変わったこと、拡声器の性能が格段によくなったことに隔世の感を抱きました。今の日本の雰囲気は「60年安保反対闘争」の頃にそっくりです。「安保」は通ったけれど国民は東京、横浜、名古屋、京都、大阪と革新自治体を生み出し、老人医療を無料化させました。
 しかし安保闘争で築かれた社共共闘を社公合意で破壊し、革新自治体を次々交代させ、自公政権になり、現在の悪政にいたっています。戦争法を筆頭に消費税増税、原発再稼働、医療改悪、TPP合意と自公政権と国民の矛盾は限界域に達しています。戦争法廃止の連合政府をつくる野党共闘を組んで選挙を戦えば、小選挙区制の下でも勝利する可能性は十分あります。前回総選挙での沖縄の勝利がそれを証明しています。
 「たたかいはここから」「たたかいは今から」「がんばろう!」(荒木栄の歌)