私的「笑って死ねる病院」
-個人として尊重される医療をめざして-
中内義幸医師 講演
能美市・寺井病院副院長
「笑って死ねる病院」をご存知ですか? これは金沢の民医連病院、城北病院で、終末期の患者さんの希望を叶えるために医師や病院のスタッフ、患者さんの家族が一丸となって取り組む様子を、地元のテレビ局が「笑って死ねる病院」としてドキュメンタリー番組でレポートし、話題となったもの。
今年3月の新入生歓迎企画では、この城北病院に勤務し、現在は寺井病院の副院長を勤める医師・中内義幸先生が登壇。ご自身が医師をめざして医学生となってから現在に至るまでのさまざまな経験と、それを通して変わってきた考え方や、医療への思いを語ってくださいました。その主な内容をご紹介します。
目次
医者の多い一族に育って
私は1964年東京生まれで、実家は今も東京の目黒にあります。そして22歳のときに4浪して金沢大学の医学部に入学し、そのまま石川県に住んでいます。
私の父は皮膚科の医者で、父方の祖父も海軍の軍医から軍医学校の校長を務めるなど、医者の多い一族でした。自分も「大きくなったら医者になるんだよ」といわれて育ったので、大きくなったら自然に医者になるものだと思っていました。ただ医者になるためには受験戦争に勝ち抜かなければいけないことは誰も教えてくれなかったんですね(笑)。
また、私が幼稚園の頃、母方の祖母が病気で胸から下が完全にマヒしてしまいました。今考えると脊髄の病気だったのではないかと思いますが、当時は原因不明の病気といわれていました。私が小学生になる頃には祖母は入院し、母も祖母の病院に手伝いに行っていることが多くなったので、私は「鍵っ子」として育ちました。
その後、祖母は退院し、車いす生活となったので、私も祖母が車いすからベッドに移動するのを手伝ったり、大きくなって車の免許を取ってからは二子玉川に買い物に連れて行ったりしていました。そういう経験をしたことが、後から考えると、医者側の視点だけでなく、患者側の視点が身につくことにつながっていったのかな、と思います。
民医連との運命的な出会い
私は子どもの頃から医者になれといわれて育ったため、医者の仕事を理想化しているところがありました。しかし大学に入学して実習をしたりするようになり、世の中のことが見えてくると、医療はきれいごとではないとわかってきます。そんなとき、ちょうど5年生になる前の春休みに東京の民医連の人から連絡があり、「春休みに帰省するなら病院見学に来ない?」と誘われたんです。5年生になると大学でも病院実習が始まります。そういうタイミングで誘われたので、春休みに東京民医連の小豆沢病院に見学に行きました。これが民医連との出会いでした。
今回、過去の資料を見ていたら、春期実習感想文というのが出てきました。そこに「自分の将来の医師像」について書いています。それまでも民医連の人と話をするとよく「将来どういう医者になるの?」と聞かれて辟易としていたんですが、そのときは結構気分が高揚していて「今まで隠していたが、本当のことをいうと理想の医師像は患者さんが私の顔を見ただけで治ってしまうような医者です」と、とんでもないことをいっているんですね。当時、これをいうと民医連の担当者にはウケました。民医連ってこういうことをいうと喜ばれる組織なんだ、と思ったことを覚えています。
本当に患者さんの立場に立った医療とは?
「患者さんの立場に立った医療をしています」というのは、どこの病院でもいうことですが、実際はそうでもないということは皆、知っているわけです。でもこの小豆沢病院に行ったときに、この病院は本当に患者さんの立場に立った医療をしている。こういう病院が現実にあるんだということがわかり、とてもうれしかったのです。医者だけが頑張っているのではなく、そのほかのいろいろな「多」職種の人が目の前の患者さんのために積極的に関わって取り組んでいる。それが衝撃的で、うれしい経験でした。
その一方で、ちょうど選挙前だったので、昼休みにナースセンターで看護師さんがせっせと選挙のビラ折りをしていたんです。私は政治には無関心だったので、これにはちょっとついていけないと思いました。ただこういう病院があるということはわかったので、きっと探せばこういう病院で政治的でないところがあるだろうと思い、10ヵ所くらい、いろいろな病院を見に行きましたが、見つけられませんでした。
また、「民医連の医療と研修を考える医学生の集い」というのがあり、その実行委員会が年に何回か東京で行われるので「実行委員になると無料で帰省ができるよ」と誘われ、5年生~6年生にかけて実行委員をしました。この実行委員会に行くと、全国からいろいろな医学生が集まってきて、医療のことを熱く語る。自分の学校ではそういうことがなかったので、仲良くなった学生たちとどういう医療をするのか話したことはすごく刺激になったし、全国にはそう考える学生がいるとわかって、とてもうれしかったですね。
その頃は今のような研修制度はなく、「片道切符」といって、大学を卒業して就職先を選ぶと、ほぼ一生そこで生活することになりました。そのため出身大学の医局以外のところに行く人は極めて少なかったし、高いハードルでした。けれども長いものに巻かれて金沢大学の医局に行き、ほどほどの医療をするのは、もちろん大学もきちんとした医療をしているのですが、自分の良心に素直にできるかというと疑問がある。この先、何十年間か医者としてやっていくには、自分の気持ちに素直に行動できるところで、自分のやりたい医療をしたいと思い、民医連を選びました。
城北病院で研修医としてスタート
当時は今と違い、就職して最初の5~6年間に初期研修が行われました。私は城北病院という300床くらいの病院で研修をスタートしましたが、2年目には人手の関係で、今勤務している寺井病院に回されました。ここは当時56床の小さい病院だったので、当直はいきなり1人になってしまうし、外来も毎日入っている。あと、定期の訪問診察があり、毎週病院の外に出る時間があるという研修でした。訪問診察は楽しかったのですが、1人当直は怖かったですね。当時の寺井病院は急性期も診ていたので、心筋梗塞がきたり脳出血がきたり、在宅酸素の患者さんが呼吸不全になって運ばれてきたり。先輩の応援を頼んで何とか鍛えられつつ成長できた感じでした。
この研修2年目の年が明けた1月に阪神淡路大震災がありました。民医連からもボランティアの呼びかけがあり、医療支援という形で2回、応援に行きました。このときは震災の被害の大きさもありますが、その中で医療の果たす役割の大きさを感じました。また、全国から集まった民医連の職員が、その場で即席のチームをつくって避難所に診察に行ったりいろいろな活動をするのですが、簡単な打ち合わせをしただけですぐにチームとして機能できる。患者さん中心に医療をしようという思いで頑張っている人たちが集まると、何が必要かを自分たちで考えて判断して動ける。それが民医連なんだと印象に残った大きな体験でした。
もうひとつ印象に残ったのが、日常の生活が非常に大事だということです。逆にいうと医療がどれだけ頑張っても、食事ができないとか寝る場所がない、着るものがないといったことは医療ではカバーできない。そういう意味では行政の仕事が大事で、環境をきちんと整えておかないと健康な生活はできないということを印象づけられました。
その後1年間、城北病院で研修した後、5~6年目にかけて羽咋診療所という、金沢から1時間ほど離れた地域の診療所に行きました。研修といっても、ここは医者1人の診療所なので、行ったら診療所長なんです。あとは看護師4人と事務2人、それと友の会という地元の方たちが一緒に支えてくれる。この友の会が非常に強力でした。ひとつ嫌だったのは、自分がいる2年の間に市議会選挙があることでした。友の会の会長は前回の市議選で落選した前議員だったので、選挙では応援しないわけにいきませんが、自分は正直あまり関わりたくないと思っていました。
ちょうどこの時期、健康保険法を改訂し、高齢者はそれまで月1回1,000円の定額負担で受診できていたのを1割負担に変えようという法案が準備されていて、民医連はそれに対する反対運動をしていました。羽咋診療所のある地域では月2、3万の現金収入があれば孫にお小遣いをあげても生活できるという人がたくさんいます。そういう人たちが月1,000円の窓口負担で済んでいたのが1割負担になるとお金が足りなくなって、自分が外来で診ているあの人もこの人も病院に来なくなるのではないかと、すごくリアルな問題としてあり、こういう改悪はやめさせなければいけないと思っていました。そこで友の会の人たちと一緒に署名集めしたりしていたのですが、そんなときに会長さんが先頭に立って頑張ってくれました。
また、羽咋市は石川県で唯一「高額医療費の受領委任払い制度」がない市だったので、その導入を求める署名を集めて議会に請願していましたが、議会では誰も請願を受け取ってくれない。そこで自分たちの意見を議会に上げてくれる人が必要だということで、政治のためではなく目の前の患者さんのために、という思いで、素直に会長さんの応援をすることができました。その結果、会長さんはめでたく当選し、請願を上げるとほかにも賛成する議員が出てきて、法案は議会を通ったんですね。
その後、7年目には大阪の羽曳野病院での外部研修を経て2000年に城北病院に戻り、2013年には今いる寺井病院に異動となり、今に至るわけです。
「笑って死ねる病院」
2008年6月にテレビで「笑って死ねる病院」が放送されました。私もこの冒頭部分、松村さんという患者さんが家に帰るシーンに登場しています。松村さんは肺気腫で、”saber sheath trachea syndrome” で気管の軟骨が軟らかくなっていて、強い呼吸困難を繰り返すという病気でした。人工呼吸の必要な最重症の呼吸不全の患者さんでしたが、家が大好きで、なるべく家にいたいという方でした。しかし家と病院の行ったり来たりで、2005年10月の32回目の入院のとき、状態が悪くて退院も難しくなってしまいました。
翌年7月から麻薬を使い始め、食事もだんだんとれなくなって点滴していましたが、点滴を入れる血管もなくなって、2008年3月からは持続皮下点滴を入れました。その中で3月12日に自宅へ外出し、19日に亡くなりました。本当に長い闘病の最後のところで、いつ呼吸が止まってもおかしくない状態でした。松村さんはずっとルンゲの会という患者会の会員で、年に1回、患者さんと家族、病院のスタッフが一緒に1泊旅行をして夜はおしゃべりをして、という活動をしていました。そうした中で病院スタッフと松村さん、松村さんの家族の信頼関係がしっかりとできていたから、ああいうギリギリの状態で外出することができたのだと思います。
家に帰りたいという希望は、松村さんは僕にはいってくれませんでしたが、看護師にはポツリと伝えてくれていました。それを聞いた看護師が「松村さん家に帰りたいといっていますが、無理ですか?」といってきてくれた。そういういろいろな人の信頼関係ができていたことが大きかったと思います。
この番組をつくったのは中崎さんという女性のディレクターで、地元のテレビ金沢の遊軍スタッフとして、自分たちでこだわった対象を取材している方です。この方は笹嶋さんという肺がんで亡くなった患者さんの知り合いで、最初はその奥さんから夫をビデオに撮って残してほしいという個人的な依頼を受けて撮り始めたのです。それが病院に来られるようになってだんだん病院スタッフとの信頼関係もできてきたから、柳沢先生が笹嶋さんに「そろそろお迎えですよ」というようなシーンまで映像に残せたのだと思います。
「笑って死ねる病院」は、Medi-Wing66号に特集記事として掲載されています。
目の前の患者さんに何が必要なのか
この患者さんは何を望んでいるのか、その人の自己実現はどういうことか、病気は治らなくてもその人にはいろいろやりたいことがあるはずなので、それは何なのかを考えることが私たちには求められています。もちろん医者なので、きちんと診断して治療することは前提条件として当然ですが、それだけで患者さんの望みが叶うわけではありません。病気が治れば問題ないけれど、治らない病気もたくさんあるので、そういうときにどう行動するかが問われていると思うのです。
たとえば5年7ヵ月という、当時としては長生きされた「4期肺腺扁平上皮癌」の患者さんがいました。この患者さんは企業健診で胸部異常があるといわれましたが放っておき、その後、腰が痛くなって来院されました。喫煙歴があり、ずっと解体業をして会社の寮に住んでおり、離婚して身寄りはいません。入院は行旅扱いといって、行き倒れになった人の医療費を市が負担するという金沢市の制度を使いました。病気は脳転移のある肺がんでしたが、転移のある肺がんは当時は1年持たないことが大半でした。この方の場合はまず脳外科の病院で頭の手術を受け、その後抗がん剤治療を行うため、城北病院に2度目の入院をしました。会社は働ける見込みがなくなった時点でクビになり、仕事も住むところもなくなっていました。しかし思いのほか抗がん剤治療がよく効いて元気になり、これなら退院できるという状態になりました。
ただ帰る先がないので、病院がお手伝いしてアパートを探し、退院しました。その後は外来で診ていましたが、この方はお付き合いする女性ができたとか、その女性とケンカしたとか、外来でよくおしゃべりしてくれる患者さんでした。結果的にはまただんだん病気が大きくなって、5年としばらくたったところで亡くなりましたが、反省させられたのは、4期の転移のあるがんなので最初に入院したまま亡くなるだろうと勝手に思っていたことです。しかし治療が効いて退院したら、当然その方らしい人生がその後も続くのであって、そう簡単に人の人生を諦めてはいけない。その人のその時その時の状況に応じて、キチンとやっていくことが大事だと感じさせられました。
もう一例、67歳の男性で、1週間前から強い呼吸困難感があって救急搬送された方の例を紹介します。この方は無職で結婚2回、離婚2回、服役歴があり、20年前から路上生活をしていて家族との音信はありませんでした。来院したときは呼吸困難がひどくてしゃべることができず、ほとんど問診もとれないような状態でした。レントゲンやCTをとると、何らかの腫瘍があって右の胸水がたまっていることがわかったので、胸水を抜く治療をすると呼吸も楽になり、しゃべったり起き上がったりできるようになりました。そこで改めて話を聞くと、数ヵ月前から息が苦しくて何度か城北病院の前まで来たけれど、無保険なので入る勇気がなかったというのです。追加の検査の結果、腎がんが肺や胸壁に転移して広がっていることがわかりました。ここまでなるには相当の期間、苦しかったと思うのですが、保険がないためにがまんしていたんですね。この方は結局その日の夜、病室で心肺停止になり亡くなってしまいました。しかしもっと早く診察を受けていれば、こんな経過にはならなかったはずです。
城北病院は無料低額診療を行っていて、お金がなければ窓口負担なしで診療が受けられ、差額ベッド料も取らないという取り組みをしていますが、この方の場合はそれが十分伝わっていませんでした。このように病院がいろいろ準備しても、病院で待っているだけでは何も解決できない、もっともっと世の中に働きかけていけなければならないと思います。
「その人らしく」を追求したいと思っても、その前に「最低限度」の生活が守られない人も、今の日本にはまだまだいます。そのときにどうすればいいのか。自分ひとりでやっていくのは難しいですが、民医連にいると一緒に頑張ってくれる人がいたり、地域の人たち、共同組織の人たちも、同じ方向を向いて頑張ろうといってくれる。さらに政府に何か要求しようというときには、全日本民医連もあります。
すべての人が等しく尊重される社会
全日本民医連は2年ごとに総会を開いて運動方針を決めます。その運動方針をまとめた長い文章が2年ごとに出されますが、この文章が非常によくできています。自分が医師としてこの患者さんにもっと何かしてあげたいができないということがあると、それがこの運動方針に拾い上げられていて、それに対して全体でこういう方針を持って解決していこうということが示されています。これはすごいことだと思うんですね。日本中のいろいろな医師の経験をすくい上げ、運動方針にまとめ、それを2年ごとにブラッシュアップしている。その根っこのところに民医連綱領があって、何を目標にみんなで頑張るのかというエッセンスがまとめられています。
この民医連綱領では、最初に「私たち民医連は無差別・平等の医療と福祉の実現を目指す組織です」とし、それから日本国憲法に触れて「この憲法の理念を高く掲げ、これまでの歩みをさらに発展させ、すべての人が等しく尊重される社会をめざします」としています。決して病院や診療所の中にとどまるのではなく、世の中をよくすると宣言しているんですね。憲法にも言及していますが、国民主権、平和的生存権、基本的人権という三大原則が憲法に書かれているということが、民医連が目の前の患者さんのために頑張るということの大きな拠りどころになっています。憲法は日本の一番基本の決まりなので、そこに書いてあることを実現するためにやっているのだと。そして、それがめざすのはどういうことかというと、「すべての人が等しく尊重される社会」なんですね。
すべての人が等しく尊重されると聞いて反対する人はあまりいないと思いますが、実際問題としては日本にはいろいろな競争があり、最近では自己責任ということもよく言われています。その中ですべての人を等しく尊重するとはどういうことかというのは結構難しい問題です。私はここで「等しく」というのは「イコール」ではなく、個人として尊重されるということだと思うのです。AさんはAさんなりに、BさんはBさんなりに、それぞれ自分がなりたいと思う生活ができるということが個人として尊重されるということで、人にはいろいろな差異があるので、その人その人で自分らしくいられるというのが大事だと思っています。
医者として患者さんに接したときに、投薬や手術をしただけでは良くならないこともあります。そのときは運動や食事など、その人のライフスタイルを変えてもらったりしますが、それでもうまくいかないときは、環境を変えなければいけないこともあります。運動しようと思っても長時間労働でできない、食事に気をつけましょうといっても低賃金すぎて質の良い食事ができないといったときに、どこまで医者がやるべきなのかという問題はありますが、目の前にいる患者さんに必要なことであれば知らん顔はできません。
私は最初、民医連に出会ったときに、良い医療はしているけど、政治的なところが嫌だと思いましたが、いろいろやっていく中で、良い医療をするためには政治的な要求も必要だと思うようになりました。さらにもう一歩進んで、結局、医療と、行政や政治を含めた社会環境は切り離せない関係で、行政や政治に働きかけることは自分が良い医療を進めていくうえで当然すべきことだというように、だんだん考え方が変わってきました。もちろんそれは自分だけでするのではなく、チームや病院や共同組織の人と一緒にやることです。民医連という組織には、そのためにハードルは高いけれどみんなと一緒に頑張って取り組もうと自然に思える空気があります。課題はすぐに達成はできなくても、その時点その時点で妥協もするけれどもおしまいにはせず、少しずつでも進めていって、少しでも改善できるようにしていきたいと思っています。
中内 義幸 医師プロフィール
- 1964年 東京生まれ
- 1987年 金沢大学医学部入学
- 1991年 小豆沢病院(東京)で実習、民医連と出会う
- 1993年 金沢大学卒業、城北病院で研修開始
- 1996年 羽咋診療所所長
- 2000年 城北病院呼吸器病棟医長
- 2003年 城北病院内科急性期病棟医長
- 2013年 寺井病院副院長
参加された学生などからの感想を一部紹介します
- 先生が様々な病院をみたうえで民医連は自分の良心に素直に行動できるところだとおっしゃっていたのを聞き、改めて民医連に進んだのは間違いではなかったなと思いました。
- 医学の勉強だけでなく患者さんと実際に接する機会を積極的に作ろうと思った。
- お話を聞いて印象に残ったことは、「信頼関係」という言葉でした。患者さんはもちろん看護師さんとの信頼関係があったから患者さんの意向を組み取ることが出来たんだと思いました。
- 医師の行政への干渉については大学で習うことのできないもののひとつであるので、如何に中内先生が行政に関わったかという具体的な事例を知ることが出来て貴重な経験となった。
書籍情報
株式会社ワニブックスより、笑って死ねる病院 ~「最後の願い」を叶える希望の医療~ が出版されています。
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